2007年10月21日日曜日

公園

ま、これも一人で行ってなんぼのもんじゃいという感じではあるのですが、一応行ったので。

公園でお一人様するのに勇気がいるのは、多分3時くらいから夜にかけての、子どもが遊ぶ時間・カップルが出没する時間あたりなんではないかと思う。前に、子どもが野球かサッカーしているときにベンチにお一人様でベンチに座っていたら、ボールが何度も飛んできて、こちらとしてはなんともないけれど、遊んでいる子どもの方はやりづらそうだった。

今回は無難に日曜の朝。



①行った曜日・時間帯:
日曜の朝。

②「お一人様ですか?」と聞かれるか:
聞かれない。

③お一人様用席があるか:
ない。

④お一人様に白い目はあるか:
全くない。広めの公園だったし、私の座っているところがあんまり人目のないところだったというのもあるかもしれない。公園全体で言えば、私の他に一人初老の男性が一人で本を読んでいたが、もう一度彼の前を通ったときは、友人らしき人々と話していたのでもしかしたら待ち合わせだったのかもしれない。その他は、犬の散歩に来てそのままダベっている女性が2人、軟式テニス(コートもないのに!)を楽しむ中学生3人、野球をしている父子と言った面々。初老の男性を除けば、お一人様は私の他にはいなかった。

⑤お一人様としてどんなふうに楽しんだか:
ひたすらぼーっと、遊んでいる子どもたちを見ていた。

その時考えたことだけど、映画とかドラマとかそういうので、公園のベンチに一人で編み物とかしているおばあちゃんって出てくると思うんだけど、そういうのって風景になっている場合もあるし、「なんでこんなところに一人でいるんだろう?待ち合わせでもなさそうなのに不思議な人。」というような興味の対象になる場合もあると思う。
なんでわざわざ、外で編み物なんかするのか。まして私のように何もしてないのだとしたら、いったい何しに来てるのか。いや、たそがれに、ね…。でも、何故たそがれるために、わざわざ人のいるところに来たりするんだろう。

そこで自分の「孤独」について考えてみた。私は一人で過ごすのがうまいと自分では思ってきたし、正直「さみしい」って感情がどんなものなのか最近になるまで知らなかった。結婚なんてしたくないと言うたびに「でも年をとったらさみしいよ」などと言われることがウザくてしかたなかった。今でも少しウザい。
だけど、今まで「退屈」という感情が占めいていた部分をだんだんと「さみしい」という感情が侵食してきたことに最近気づいた。「ひとりでいたい」「ひとりの時間がなくなるのは嫌だ」という気持ち、ひとりになったときに感じる安堵感、そういったものはまだ根強く自分の中にあるのだけれど、それと同時に「人のいるところにいたい」という気持ちがふっと湧き上がるときが出てきた。
今までも人ごみが心地よいと思ってはいたが、それは誰もが周囲に対して無関心であることの心地よさ、のようなものだったと思う。一人の部屋で自分の意識が自分自身に集中してしまう自意識の煩さ(うるささ)が、人ごみの雑音・騒音によって拡散し、心安らかな気持ちになれるのだ。

だけども公園に一人座ってぼーっとする心地よさはそれとは少し違う。ここで友だちを作りたいわけではない。コミュニケーションも出会いも期待なんてしてない。むしろ、できるだけ話しかけないで欲しいし、私なんていないかのようにふるまって欲しい。それは人ごみの場合と同じだけれど、子ども同士、親子、犬の散歩友だちが、(こちらから見れば)温かなコミュニケーションをとっているその場を、自分が共有しているという心地よさが日曜の公園にはある。かえすがえすも、私も一緒に野球したいとか、話の輪に入りたいとかそういう気持ちは全くない。それでも、お一人様の群れに埋没する心地よさとは、やはり違うのだ。

人ごみで癒される感情が「あせり」や「緊張」のようなものだとしたら、公園や常連だらけの店に一人でいることで癒されるのはやはり「孤独」なのだと思う。温かで人間らしい関係性(それが真実のところ何なのかはさて置き)に当然伴う煩わしさ(わずらわしさ)から距離を保ちつつ、そのような関係を身近に感じながら無責任に「いいな~」などと憧れたい、「孤独」に対する相反した気持ちが、日曜の公園で満たされていくのを感じた。

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